2017年12月7日木曜日

『監獄のお姫さま』第8話

「好きだからもう会いたくないの」と言われた後の小泉今日子の演技がとても良かった第8話。いよいよ終盤に入って来た感じだが、もっと長く観ていたいと思わせるドラマだ。
 良いお店の肉まんは皮だけでも美味しいかもしれないが、中のあんを食べて初めて肉まんを食べたと言える。今回はドラマの表層部分だけでなく、「境界」をキーワードにしてドラマの「あん」の部分を中心に味わってみたいと思う。

溶けていく「境界」

 前回書いたように、このドラマではテレビという虚構の世界と現実の世界が交錯する。馬場カヨ達が刑務所で観た番組に出ていた板橋吾郎(伊勢谷友介)が実際に姿を現すし、吾郎にとってもテレビで観ていた女囚達が目の前に現れることになる。財テク(菅野美穂)は出所してから「みそぎ」を建前に、テレビという虚構の世界に戻っていく。このドラマではテレビの世界と現実の世界が密に繋がっていて、「出入り自由」とばかりに2つの世界を行き来しているようで、そこには「境界」というものを感じない。財テクのハニートラップ・ダンス(?)は平気でマドンナからにゃんこスターに移行してしまう。「若井」が「古井」になったり、「若えの」が「若くねえの」になったりする。
 馬場カヨの「復習(讐)ノート」に書かれた内容も、実行されなければただの空想、虚構に過ぎない。虚構のまま終わらせず、現実化した(グダグダになってもw)のが若井ふたば(満島ひかり)なのだろう。

 馬場カヨはふたばに言う。「犯罪者は本当のことを言っていけないのか?おばさんにだって正義はある」と。一度罪を犯したからと言って、正義を行う資格を失うわけではない。むしろ、それだからこそ、という説得力さえ持つような気さえする。しかし、彼女達が作った復讐計画は、それを正義として実行しても、結果として罪になる。正義と罪が交錯し、その境界線はとてもあやふやなものに見えてくる。
 刑務所内では表立って「復讐」とは言えないので「更生」と言い換えることにしているが、彼女達の真の更生は、復讐という名の正義を遂行することで得られるようになっているのだろう。復讐と更生を不可分なものとし、その境界を無くそうとしているようにも思える。

 よく言われるように、宇宙から見た地球に国境線などというものは存在しない。それは人が勝手に作った、仮想的な線だ。人はとかく何かの間に線を引いて区別したがる。時に無意識にそれをやってしまう。何かを分けて「区別」したものがいつの間にか「差別」になったり、分けた途端に対立を生むこともある。何かの間に線を引く場合、そこでいいいのか誰が決めるのか?そもそも線を引いて区別すること自体が必要なのか?そんな問いかけをこのドラマを通して感じる。

境界で揺れる若井ふたば

 「先生」ことふたばはからかい気味に「肉食系」と言われているが、熱い思いは男だけに向けられているのでは無いと思う。「公務員は安定してるから」というのは多分嘘で、子供の頃に出会った「しいちゃん」のように、受刑者が再び刑務所に戻ってこないよう、自分に何か出来るのではないかと思って看守になったのだと思う。しかし現実は受刑者の方から壁を作られ、自分の思っていたことが出来ず、いつも苛立っているように見える。熱い思いがあるだけに、彼女の中で感情は沸騰し易く、時には壊れた圧力釜のように暴発する。罵詈雑言が飛び出してくるのは、こういう時なのだろう。

 囚人のために何かをしたいと思って常に揺れていたふたばにとって、馬場カヨは救いだったのかもしれない。ふたばにとっての馬場カヨは、しいちゃんの再来的存在(二人とも美容師なのが象徴的)だが、復讐計画を実行して刑務所に戻って来ては、本当の再来になってしまう。ふたばは何としてもそれは避けたいと思っている。馬場カヨを懲罰房に入れた時はまだ計画を止める思いが強かったが、釈放前準備寮で1週間を過ごした後では、二人の間にあった壁は取り払われていたように思える。この時点でふたばは自分が音頭をとって復讐計画を実行することを決めていたのかも知れず、しかも馬場カヨ達が新たな罪を背負わない形で決着させようと決心していたのではないか。

馬場カヨの突破力

 馬場カヨはバリバリのキャリアウーマンという感じは全くしないが、銀行に復帰後すぐに営業トップになってしまったのは、おばちゃん的浸透力のようなもののおかげなのか。囚人との間に壁を感じて苛立っているふたばにも、そのおばちゃん力で近づいていくし、検事の長谷川に対してまでも距離を縮める。面会室の二人は仕切りを通してしか会話できなかったが、やがて隔てるものの無い美容室で二人がイチャつくのが象徴的だ。検事や看守は刑務所の内と外にある境界を行き来する人達である。そういう人達との親和性を持つのは、馬場カヨが最も普通のおばちゃんに最も近い存在だからなのだろう。財テク、女優、姉御といったキャラや境遇に比べれば、どうしたって馬場カヨが最も「普通の人」になる。

 姫の立場に一番近いのも馬場カヨである。二人とも男に裏切られ、息子を奪われている。だから彼女は姫に肩入れせずにはいられない。普通のおばちゃん感覚では濡れ衣を着せ、別の女と結婚してのうのうと暮らす吾郎を許せる筈がない。再審請求の難しさも顧みず、ひたすら復讐計画を実行しようとする。
 馬場カヨは自分が陥った状況を回復できない以上、姫のための復讐は代替行為のようなものだ。だが、それをもって良し、とするしかないのである。

クドカン流「刑務所の塀の壊し方」

 刑務所はもちろん塀という物理的な存在で囲まれていて、それが内と外の明確な境界となっていて、その2つの世界はまるで別物のように感じる。このドラマの狙いが境界線を限りなく曖昧にしてゼロに近づけていくことならば、刑務所の塀さえも実質的に取り払おうとしているのではないかと思えてくる。
 普通、刑務所は罪を犯した人が入る場所であると考えられている。しかし、このドラマではそれさえ曖昧だ。例えば姉御(森下愛子)は元夫の罪を被って服役しているし、姫(夏帆)も濡れ衣を着せられているだけなのかもしれない。夫を刺すという罪を実際に犯してしまった馬場カヨにしても、「言語化できない」理由の積み重ねがそうさせてしまったのであり、罪を犯す、犯さないの境界は非常に曖昧なものになっている。

 「ジェイルウェア」や「ごはんの歌」など、実際には無さそうなものが「自立と再生の刑務所」には持ち込まれている。それは視聴者を笑わせるためだけのものではなく、我々が漠然と持っている「刑務所」のイメージを吹き飛ばし、外の世界と地続きなものとして感じさせる。テレビ番組のような財テクと馬場カヨの十番勝負もまたこのことに一役買っていたように思う。

クドカンの「閉じない世界」

 これまでのクドカン作品を振り返ってみると、何かと何かの間にある壁を突き抜けようとする試みが多かったように思う。「罪を憎んで人を憎まず」を極端な形でやって見せたのが『うぬぼれ刑事』だったが、「犯罪者」との間にある見えない壁を、「うぬぼれ」と呼ばれる刑事はいつも突き抜けていった。『ごめんね青春!』にしても、男と女、仏教とキリスト教の間に漠然としてある壁を突き抜けていく話として捉えることも出来る。男や女、犯罪者といったそれぞれの塊で閉じたものになるのではなく、オープンなものにして違うものと接触させることで起きる化学反応のようなものを描いてきたようにも見える。

 クドカンはさらにドラマ自体を一つの閉じたものにしたくない、という意識がいつも働いているようにも思える。よく小ネタとしてメタなものをぶち込んでくるが、こういうのはドラマを殻に閉じ込めず、風通しをよくするような効果もあるように思う。

 このドラマではこれをさらに押し進めているのかも知れない。「薄手の白シャツ一枚でずぶ濡れの男」は菅野美穂が「女優」として出演した『ひよっこ』を連想させたが、こういうメタ的なものを使っておいて、今度はその状態にさせた吾郎を財テクと遭遇させることで打ち消してしまう。別のドラマと繋げたリンクを消し去ることで空白が残り、ドラマの輪郭線のようなものの一部が消え、より開かれたものになるように感じるのは自分だけだろうか?

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